私の履歴書1(川下清)

「私の履歴書」ふうに

皆様に私という人間を知っていただくために、経歴やこれまでやってきた仕事を「私の履歴書」ふうに書くようにとのご指示をHP委員会からいただきました。

とういわけで、私の履歴書ふうにお話します。

私は、1954年(昭和29年)11月20日、大阪市東住吉区で生まれました。

兄は、今上天皇(明仁)の立太子の日に生まれたので明と名付けられました。で、私は、❝明の次は清❞ということで清と名付けられたという伝説があります。それなら妹は、華とか華子、あるいは民子とかだったら一貫するのですが・・。

3人兄妹の真ん中として育ちましたが、正確にいうと、5人生まれた中の4番目です。

1番上は、女の子でしたが、乳児のときにポリオに罹患し、一度も立って歩くことのないまま4歳で亡くなりました。その少し前に亡くなった父方の祖母が、天国から迎えに来て連れて行ったと我が家では伝えられています。

私が子どものころは、ポリオの後遺症で四肢に障害がある人が学校に一人二人いましたが、父母共にとても優しく接していたことを記憶しています。自分の娘の幻影を見ていたのだと思います。

2番目は死産。両親は、第一子、二子と子どもの不幸が続いたことについて、私たちに何も言ったことがありません。かなり大きくなって、仏壇にある位牌の戒名について尋ねるまで、二人の存在を知らなかったくらいです。自分が子どもを持って、その命の危うさに震えたとき、両親がまったく口にしなかったことの意味を初めて少し理解できたように思います。

そういう前史があって、両親や祖父母(私の家は、父方の祖父と母方の祖母が同居していました。)は、兄や私、妹を無事に育てることに力を注いでくれました。私は、ハイハイしていた時期に2階から階段を転げ落ちたり、幼稚園時代に後頭部を打撲したりで事故が多く、あまり遊び回ることができませんでした。そのためか、小学生のころは、よく朝礼の最中に貧血を起こしていました。両親をずいぶんハラハラさせたようです。

幼児のときの写真を見ると、青白い顔をして、頭の大きさが目立つ子どもでした。今では信じてもらえませんが、対人恐怖症で赤面癖があり、吃音で、人前では声が出ない。音楽の歌のテストはいつも0点。そういう子どもでした。

母親から聞いたところでは、ここに座っていなさいというと、ニコニコしながら黙って座っている子どもだったそうです。両親は、学校に上がると、周囲について行けないのではないかと心配したそうです。何か学業以外のことで身を立てようと考えたようで、ピアノ、お絵かき、お習字、そろばんなど習い事をさせられましたが、何一つ長続きしませんでした。お絵描きの教室では、緑色のサンタクロースを画きました。母親が先生から、この子は、医者にはなれない、あれにもなれない、これにもなれないと列挙されるのを横で聞いていた記憶があります。

小学校の4年生くらいのとき、「判決」というテレビドラマが放映されました。当時、新進女優だった河内桃子が主人公の新米女性弁護士で、ボス弁や兄弁に温かく見守られながら、冤罪を雪ぎ、社会正義のために闘って成長していくというものだったと思います。ストーリーをちゃんと理解できていたのか怪しいですが、これを見て弁護士という職業を知って、自分に向いていると思い、弁護士になろうと思ったのです。その後、他の職業を考えたこともないではありませんが、ほぼ一貫して弁護士志望のまま、そのとおりになりました。

(「私の履歴書2」へ続く)

2019年4月3日 9時00分