私の履歴書2~荻矢頼雄先生のこと~(川下清)

私は、荻矢頼雄先生の下で6年間イソ弁をしました。

私は、大阪で修習中に先生からお誘いのお手紙をいただきました。まったく面識がなく、周囲の方から聞くところでは、元陸軍法務官で非常に厳しい方だということで、イソ弁が先生と話すときは直立不動という噂でした。これはとても私の勤まるところではないと判断して断ろうと思っていたところ、直接お目に掛かって断った方がいいというアドバイスがあり、事務所に断りに行ったのです。

お目に掛かると、チョビ髭を生やした温顔の人で、断りに来たというと「それは残念だなあ、まあ、せっかく来たのだから、お茶でも。」と言われ、しばらく話をしました。

陸軍の法務官であったのは事実だが、好きでなったわけではない、無理矢理させられたのだというところから始まった会話は、「それでは来年お世話になります。」と私が答えて終わりました。どのくらいの時間話していたのかは記憶にありませんが、その間に荻矢先生の人柄と弁護士魂にすっかり惚れ込んでしまい、先生の下でイソ弁をすることを決心したのです。

荻矢先生は、中央大学法学部卒業で、司法官試験に合格したところで兵役に服し、満州(現在の中国東北部)で新兵訓練を受けました。それが終わる頃、部隊の移動で内地(現在の日本の領土内)に帰れるらしいという噂がありました。輸送船に乗って内地に帰れると兵らが騒いでいる最中に、突然上官から呼び出され、どこそこで法務官の教育が始まるので、貴様はそこへ行けと命令されました。

当時、大学を卒業していると幹部候補生の受験資格があり、試験に合格すると訓練を受けて予備士官になれ、司法官試験に合格していれば法務官の資格があります。しかし、荻矢先生は、兵は兵役年限を満了すれば満期除隊になりますが、士官になってしまうと満期除隊できなくなると考え、少しでも早く娑婆に戻るために、一兵卒として過ごすつもりで、法務官はもちろん幹部候補生の志願すらしていませんでした。そこで、自分は法務官に志願していない、輸送船に乗ってみんなと一緒に内地に帰ると言い張ったそうです。上官は、「馬鹿者!あの船に乗って内地に帰れると思っているのか。あの船はな、フィリピンに行くのだ」と叱りつけ、自分が志願書を出しておいてやったのだ。悪いことは言わんから法務官教育を受けに行けと諭され、呆然としたまま法務官になったということでした。

法務官になって、大阪城にあった中部軍司令部に勤務していたとき、空襲に来て撃墜され、パラシュートで降りてきた米軍捕虜を戦争犯罪人(ジェノサイドの罪)で軍律会議にかけよと命令を受け、検察官役となって軍律会議にかけ、死刑判決が出たので執行指揮をしたそうです。そして、そのために、敗戦後捕虜虐待として追及され、B級戦犯として逮捕されました。

米軍の調査は徹底したもので、荻矢先生の指揮に従って実際に執行した下士官も逮捕されたそうです。荻矢先生は、帝国陸軍においては、上官の命令はすなわち大元帥陛下のご命令であり絶対服従である、死刑執行を命じたのは自分であり、その責任はすべて自分にある、下士官らは自分の命令に反対することはできないから、期待可能性がない、下士官らを釈放せよと頑張ったそうです。

検事は、「OK、キャプテンオギヤ、君はヒーローだ。」と感心するとともに、「で、君の責任はどうなるのだ?」と詰めてきたので、荻矢先生は「それはもっと上の人が取るはずだ。」と答え、爆笑になったそうです。

日本の一番長い日から、陸軍は、占領後の追及を怖れて、捕虜の裁判記録など多くの書類を焼却処分しました。そのため、軍律会議を開いたという記録がなくなっており、上官が責任逃れをしたために、かなり危ういことになったそうですが、この件の記録を隠して持ち帰って保存してくれた人がいて、かろうじて軍律会議の判決の存在が証明されたそうです。

判決宣告の際、「Death by hanging」を覚悟し、堂々と受けてやろうと被告人席に立ったところ、「Hard labor of 3years.」という宣告を聞き、助かったと思ったとたんに腰が抜けて、MPの手を借りて退廷したというお話でした。

荻矢先生は、強い意志をもって、自力で道を切り開いてこられた方でしたが、それでも、人間の運命は、必ずしも自分で決められないということをご自身の身を以て教えてくださった方でもあります。

私は、すでに独立していましたが、荻矢先生から呼ばれ、公正会の副幹事長を引き受けるように言われました。私の任ではないと断ると、先生は、「弁護士会や会派の役職などは、自分からあれをやりたい、これをしたいと言ってやらなくてもいい、しかし、君をよく知る人が、これをやれというときは、天命だと思って従え。」と説得されました。

先生のような方にこう言われると、もう嫌とは言えません。そうして佐伯先生の執行部に加わることになり、その後も、荻矢先生の言葉に従って、木原先生、高階先生そして上野先生の執行部と4回にわたって副幹事長を務めることになったのです。

2019年4月3日 9時00分